「病気を無くす」ホームページ表題3-3 

ペニシリンの真実を明かす。

                      感染症を無くすために!

                                                                                              

ペニシリンはフレミングが1928年に発見した事は有名ですが、フローリーらが中心になって開発したことはあまり知られていません。ペニシリンは戦時のプロパガンダとして、米国のミラー夫人の症例や英国のランバートの症例を偽造してマスコミに流し、ペニシリンの効力を過大に見せて抗生物質の神話を創作したものである事を本文に示すします。「敵を欺かんと欲すれば、まず味方から」の故事に倣い、全世界を欺いた結果、このプロパガンダは大成功を収めましたが、効果のない抗生物質を使い続けるという副作用を70年余りも残しました。

今こそペニシリンの真実を明らかにして、感染症の正しい治療(表題3及び3-2参照)を始めるべき時なのです。そうすれば、結核や肺炎のみならず新型コロナウイルス肺炎にも容易に勝利する事ができるでしょう。ペニシリンの真実を知った時は初めて戦後が終わる時かもしれません。2度とこのようなことが起こらないように、この世から戦争がなくなることを、心から祈ります。

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内容は登場人物も多くストーリーも複雑なため、登場人物一覧表(登場順)と開発の年表を作りましたので、参考にしてください。年表で分かる通り、ペニシリンは第二次世界大戦開戦とともに開発が始まり、ほぼ終戦と同時に開発を終了しています。これも戦時のプロパガンダであることを示す重要な事実です。年表の後に目次及び本文が続きます。

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penicillin color classification

penicilline person 1

penicilline personn 2

米英で協力して進められたペニシリンストーリーを整理する為、[ペニシリン開発年表]を重要と思われる事項を太字で、戦争関連を赤字で書き作成しました。

penicilline history 1

penicilline history

penicilline history 3

目次 (各行をクリックすれば、該当する本文に進みます。)

33-1 ペニシリン開発は、第二次世界大戦の重要な戦略事項

33-1-1研究テーマとしてペニシリンの選定

33-1-2 研究用ペニシリンの製造

33-2動物試験と臨床試験

33-2-1 マウスを使った動物試験

33-2-2 患者6名の臨床試験

33-3 ペニシリンを有名にした英米の症例

33-3-1フローリーとフルトン そして、ペニシリンの大量生産

33-3-2米国のミラー夫人の症例は偽造

33-3-3 フレミングとフローリーは互いに尊敬していた

33-3-4 英国のランバートの症例も偽造

33-4 患者189人の臨床試験

33-5 チャーチルの症例は偽造の失敗

33-6 ノーベル賞

33-7 総括

33-8 参考文献

33-9 履歴

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本文

33-1ペニシリン開発は、第二次世界大戦の重要な戦略事項

33-1-1研究テーマとしてペニシリンの選定

第一次世界大戦(1914-1918)当時、腸チフスと赤痢は戦闘より多くの死者を出した様に、第二次世界大戦(1939-1945)以前の戦争は感染症との戦いでした。必然的に、英国が第二次世界大戦に参戦するにあたって、感染症対策は重要な戦略事項になりました。病傷兵士を治す薬の開発を内外に知らしめ、自国の戦意を高揚するとともに、敵国の戦意をくじく重要な戦略事項です。このため、英国は、第二次世界大戦の宣戦布告(1939年)と同時に、ペニシリンの開発を始めました。ペニシリン開発計画は、原爆開発のマンハッタン計画と並行して、米英協力して進められました。

フローリーとチェインは、英国の宣戦布告の半年程前の1938年の夏、今後の研究方針を探るために、以下のような調査をしています。

微生物のバクテリア阻止ないしは拮抗作用に関する報告例を、古い化学刊行物全部にくまなくあたることにした。彼らは12か国における数百の実例を掘り起こした結果、それぞれに独立した発見が続々と出てきたために、彼らが最終的な決定をくだすのがますますむずかしくなった。(着色部「ペニシリンに賭けた生涯」レナード・ピッケル著、中山義之訳、佑学社より引用)

このように微生物の生育阻害物質に関する研究は、当時、世界中で行われていましたが、有望な物質は見つかっていませんでした。

この時ペニシリンに関する情報は、1929年「英国実験病理学雑誌」に掲載されたフレミングの論文「ペニシリウム培養液の抗菌作用とくにインフルエンザ菌の分離のための利用法」だけでした。この論文は、ペニシリン非感受性菌の分離培地に有効である事、ペニシリンに毒性がないことが述べられています。その後、「ペニシリン添加平板培地」は分離培地として広く使われており、オックスフォードの病理学教室も保有していました。

このような状況のなかフローリーたちの研究テーマとして、ペニシリンが選定されました。ペニシリン産生菌株の入手しやすさと毒性のないことが、テーマ選定の重要な要素です。フレミングの論文を掲載したときの「英国実験病理学雑誌」の編集者の一人がフローリーであったことも選定要因の一つかもしれません。開発開始にあたって英国政府の関与があったことは、ペニシリン開発が戦時の機密とされたことからも明らかです。

先にも引用した「ペニシリンに賭けた生涯」には、フローリーの様子が以下のように書かれています。

1938年の終わりに近い日に、ペニシリンの研究を始めると決めたフローリーは、友人であるR・ダグラス・ライト博士の研究室を夜中に訪ねました。後日ライト博士がその日の様子を「あの夜、彼(フローリー)は疲れているうえに、ひどく気落ちした様子でやってきました。」と述べています。

このように気落ちした様子を見せるのは、テーマが困難であることや研究資金の不足なのかもしれませんが、それはフローリーにはいつものことであります。むしろ英国政府の依頼により意に沿わない研究テーマを選ばざるをえなかった事が、気落ちの原因ではないかと考えられます。このことは、後で述べるノーベル賞受賞のスピーチによく現れています。

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33-1−2 研究用ペニシリン粉末の製造

オックスフォードのダンスクールでフローリーを中心に研究が始まりました。チェインが生化学分野を、フローリーが生物学分野を担当することにしました。戦時下の基金不足に対応するために、フローリーは、米国のロックフェラー財団から資金援助を受けて研究を進めました。軍の機密プロジェクトですから、当然、研究内容を外部に話してはいけないとする暗黙の定めがありました。

オックスフォードのダンスクールはペニシリン産生菌株を持っていたので、すぐに菌の培養を始めました。第二次世界大戦に英国が参戦してから最初の2〜3週間のうちに、菌培養皿に青みがかったグリーンの菌(カビ)が広がり、菌から滲み出る金色の粒を集め「カビのジュース」と呼ばれるペニシリンの濃縮液を得ました。さらにペニシリン粉末製造の見通しが得られたところで動物試験を計画しました。

 

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33-2 動物試験と臨床試験

33-2-1マウスを使った動物試験

病原菌を腹部に投与した8匹のマウスに、ペニシリンを投与した最初の結果は下表の通りです。

                      animaltestpeniciln

その後、マウスの数を増加させ、菌の種類も変えて実験を進めました。マウスを使った実験は1940年の5月末から7月の2か月で行われ、致死量の連鎖球菌・ブドウ球菌・ガス壊疽菌などを投与されたマウスが、ペニシリンの投与で死なずに生き続けることが証明されて「ペニシリンは強力な治療効果を有する物質であるという結論」を得ました。この結果は「化学療法剤としてのペニシリン」の題名で医学誌「ランッセト」1940年8月号に掲載されるのですが、実験の開始からランセットに掲載まであまりに短時間で驚くばかりです。

上の試験はマウスの腹部を菌の培地に見立たペニシリンの抗菌力試験にすぎず、人体の病気と見做して良いのかの考察は特にはありませんが、この試験結果をもってフローリーたちは次に進みました。

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33-2-2 患者6名の臨床試験

フローリーらは、1941年8月人体にペニシリンを投与した臨床試験について次表の結果を発表しました。動物試験の1年後です。

     penicilline clinical test 2 new ver  

前にも引用した「ペニシリンに賭けた生涯」によれば、上の症例に対するフローリーの評価が次(着色部)のように述べられています。

「ペニシリンには副作用はなく、一連の実験の結果は非常に好ましいものであるので、いかなる困難が伴おうとも、研究を拡大することが絶対に必要である。」

実際のデータを見ると、6中2例は死亡、1例は再発、14歳の少年等の3例だけが完治です。臨床試験について今では常識となっているダブルブラインド試験や他の同効能医薬品との比較試験もないなど、臨床試験としては疑問があると言わざるを得ません。また、現代では感染症といえばかぜなどに代表される呼吸器疾患が多いのですが、呼吸器疾患に適用した症例はコックスの麻疹による全身感染症の一例だけです。その一例も残念ながら死亡しています。この6例以外にも、米国で最初にペニシリンが投与されたとしている患者ドーソンや、40才台の乳がん患者エイカーズ夫人などもペニシリンの注射を受けた後死亡している事例があります。

以上の通り、この臨床試験は疑問の残る結果ですが、フローリーらは「ランセット」にこの結果を発表し、その他の専門誌等にも取り上げられましたが、それほど大きな反響はありませんでした。

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33-3 ペニシリンを有名にした米英の症例

33-3-1 フローリーとフルトンそして、ペニシリン大量生産

ペニシリンを大量生産するため、フローリーとヒートリーは、「6名の臨床試験のランセットへの提出論文」の原稿を持って、米国に向けて1941年6月に出発しました。ニューヨークを経由して、独立記念日(7月4日)には盟友フルトンの家でくつろいでいました。フルトンとフローリーは1922年ローズ奨学生として英国に留学してすぐに親友となり、互いに尊敬する間柄でした。フローリーが訪問した時は、彼の2人の子供、11歳のパキータと5歳のチャールズを戦争の疎開のため、フルトンに預かってもらっていました。フローリーが、子供と久々の再会を楽しんでいる間に、フルトンは、ペニシリン生産に関する予備的な打ち合わせを始めました。

その後、フルトン、フローリー、ヒートリー及び、全米アカデミー会長のロス・ハリスンとの会談により、フローリーたちは、米国農務省の協力を得られることになりました。米国での成果として、コーン・スティープリカーを培地に加えて生産性が10倍も向上したことや、タンク培養により生産量の拡大などが挙げられます。

更に、フローリーはリチャーズ(米国科学研究振興局医学研究委員会委員長)とも1941年8月にペニシリンの大量生産について話し合い、リチャーズはペニシリンの大量生産を進めるため政府の資金を支出することを決心しました。9月には、フローリーは英国に帰りました。後日フローリーは、「リチャーズがペニシリン生産計画のために政府の資金を支出する決心をした勇気はたたえられるべきである。なぜなら、彼の決定は試験的な一連の結果の最初の例とオックスフォードでのごく限られた臨床試験にもとづいてなされたからである。」と述べています。

リチャーズは、1941年10月に、製薬会社のメルク社、ファイザー社、スクイブ社およびレダリー社の幹部に、ペニシリンに政府も関心を待っていること、ペニシリンに関わることによって国家に奉仕する結果になることを伝えました。真珠湾攻撃の十日後にあたる1941年12月、リチャーズと製薬会社の2回目の会合には、米国科学研究振興局長ブッシュも出席し、大量のペニシリン生産の決定がなされました。米国が参戦するにあたり、戦傷者治療のため、ペニシリンの大量生産が一刻も早く達成されなくてはならない状況が、この決定を促進させたのです。なお、ブッシュは、原爆生産の責任者でもあります。このように、ペニシリンの工業化は、臨床試験の結果よりも、政府の戦時対応の一環として決定されました。

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33-3-2 米国のミラー夫人の症例は偽造

1942年3月エール大学体育局長の妻ミラー夫人は、流産後の産褥熱で生死の境をさまよっていました。主治医のバムステッドはペニシリン治療を決め、エール大学の同僚フルトンからペニシリンを手に入れ、3月14日(土曜日)ミラー夫人に注射しました。翌日午前9時には、熱も下がり、食事もし完全に回復しました。回復の状況はフルトンの日記に詳く書かれています。なお、先にも述べたとおり、フルトンはフローリーの20年来の親友です。

ミラー夫人の回復は「奇跡の薬で死からの脱出」として報道を急増させました。多くの大衆紙は、「偉大なる細菌キラー」という命名をもてはやし、商業生産を急げと要請しました。しかし、この症例は単なる奇跡であって、全ての症例に当てはまるものではありません。なぜなら、ペニシリンは生きている菌を殺すのではなく、細胞分裂により新たに生まれる菌の細胞壁の生成を阻害するため、効果を表すまでに新たに細胞が分裂する時間が必要で即効性はありません。ペニシリンを注射した翌日に完全に回復することもありません。1941年8月ランセットに掲載された臨床例ではいずれもペニシリンの投与を始めてから、数日ないし数週間かけて回復しています。また、フローリーの昔からの友人のフルトンは、ペニシリン開発を陰で手助けしていました。フルトンが、ペニシリン開発を一層促進するため、同僚の夫人を巻き込んで、「奇跡の症例」を作り上げ報道に流すことは自然な流れです。

この「奇跡の症例」作りは戦時にあって、傷病者を瞬く間に回復させる「奇跡の薬」の完成を促進するために、米国政府も関与している可能性が高いのです。なぜならば先にも述べた通り、この症例の5ヶ月前、1941年8月7日 米国化学振興局医学研究委員長のリチャーズとフローリーは、ペニシリンについて話し合っています。この症例の3ヶ月前の1941年12月17日、米国化学振興局長ブッシュ、リチャーズらは、製薬会社幹部とペニシリンの大量生産を決定しました。このように米国政府がペニシリンの大量生産を決定した流れの中にミラー夫人の症例があることが偶然とはとても考えられません。

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33-3-3 フレミングとフローリーは互いに尊敬していた

後世の伝記作家などが、フローリーがペニシリンの報道合戦を強く非難していることから、報道に何度も取り上げられるフレミングを憎んでいたとすることが多いのですが、両者は研究者として互いに敬意を払っていたことは以下の事例から明らかです。

フレミングとフローリーは、互いにリゾチームを研究していました。フローリーは、1929年1月17日ビタミンA欠乏食で飼育したネズミの臓器抽出物をフレミングに送り、リゾチーム測定を依頼しました。このことは、フレミングとフローリーが、リゾチーム研究を通して相互に協力していることを示しています。

1935年フローリーはオックスフォード大学病理学の教授に指名されました。その前任者は、ドライアー博士です。ドライアー博士は、フレミングおよび、その恩師であるアームロス・ライトとの古くからの友人でした。友人の後任ですから、相互に連絡があった可能性があります。前にも述べましたが1929年5月10日の英国実験病理学雑誌にフレミングの論文が掲載された時、編集者の一人はフローリーでした。1943年11月9日の英国王立医学協会でのペニシリンに関する会議で、両者は同じ壇上に座り、過去の研究にお互いに賛辞を贈りました。1953年秋フレミングは妻と共に国際会議のためローマに行った際、高等衛生研究部長になっていたチェインに何度もあっています。チェインはフローリーのペニシリン開発メンバーの一人ですが、以前から親しくフレミングと交遊していたようです。このこともフローリー率いるペニシリン開発のオックスフォードチームとフレミングは相互に信頼していたことが伺えます。

フローリーは、ペニシリン研究が、戦時の極秘プロジェクトで進められ、必要以上に情報を公表すべきでない事、ぺニシリンの効果が完璧ではない事を知っていたからこそ、報道合戦を非難する態度に出たのです。この事は、フローリーが1942年夏、同僚に次のよう(着色部)に語ったことからも明らかです。

問題は、この薬(ペニシリン)を魔法の薬と書く事であり、この表現は完全な間違いだ。万能薬ではないのだ。瀕死の患者や、家族にそうした物質が存在するという希望を持たせておいて、その後にその提供を受けられないと彼らに告げるのは残酷だ。

フローリーは、極秘プロジェクトの中心にいたので、この事を強く心配していたのでしょう。一方フレミングは、ペニシリン研究の協力者ではあったのですが、プロジェクトからは少し距離を置いていたので、報道に対し受け身的ではありましたが、拒否はしなかったのでしょう。この事は、ペニシリン研究に際し、フレミングは、ランバートの症例のみに関わり、その他には一切関与していないことからも明らかです。このような、両者の立場の違いが、報道に対する態度の違いとなって現れたのです。決して互いに憎んでいたわけでは無いのです。

 

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33-3-4 英国のランバートの症例も偽造

英国では「ペニシリン発見者フレミングが治療したランバートの症例」が新聞等に取り上げられ、報道合戦が巻き起こりました。その症例は、米国ミラー夫人の症例の3ヶ月後で、その概要は以下(着色部)の通りです。

「1942年6月 フレミングは、セント・メアリー病院にインフルエンザと思われる患者ランバートを受け入れました。それから2週間病状はますます悪くなり、髄膜炎の兆候も見られ、8月1日は危篤になりました。8月5日にフレミングは、フローリーからペニシリンを手に入れ、8月6日から7日間注射を続けましたが完治しませんでした。8月13日から7日間4回に分けて、患者の脊髄内にペニシリンを注射したところ、病状は著しく改善しました。患者は、8月28日には起き上がり、9月9日には完全に治って病院の外を歩けるようになりました。」

なお、この患者ランバートは、フレミングの弟 ロバート・フレミングの会社「フレミング眼鏡商会」の社員です。兄であるフレミングも「フレミング眼鏡商会」の取締役をしていました。

米国ミラー夫人の症例と異なり、14日間にわたりペニシリン注射を続けて、10日以上かけて徐々に回復しています。フレミングは患者の脊髄に注射しましたが、フローリーの8月13日の実験ノートには「うさぎの脊髄内注射の結果、ウサギはすぐに死んでしまった」と記録されています。フローリーらはこの症例を他の症例とともに1943年3月に「ランセット」に発表し、フレミングは1943年10月にさらに詳細な報告を発表しました。フローリーとフレミングは報告の中で、互いに謝意を表しました。

1943年の正式発表よりも前に、新聞等の報道が加熱しています。そのトップである1942年8月27日の「タイムズ」紙は、この驚くべき新物質に注目を向けています。タイムズ紙以外にも、同年8月28日の「ニューズ・クロニクル」紙、同年8月31日の「サンデー・エクスプレス」紙などが記事を掲載しています。このように、ランバートが9月9日に完全に回復する前に報道が始まりました。

8月31日の「タイムズ」紙にはフレミングの恩師であるアームロス・ライトの「ペニシリンの発見の栄冠はフレミングに与えるべきである。」との手紙が掲載されました。それを見たオックスフォード大学のロバート・ロビンソンからの「もし、フレミングが月桂冠に値するなら、フローリーには花束、それも立派なものを贈るべきである。」という手紙が、9月1日の「タイムズ」紙に掲載されました。その結果記者たちが会見を求めてオックスフォードに殺到するのですが、フローリーは記者たちを追っ払ってしまいました。この事が後日ペニシリンの栄誉がフレミングに集中し、フレミングに関する報道が溢れる原因になりました。

以上の報道の流れは下表の通りです。

        news1penicillin

この報道合戦が始まった1942年には、ペニシリンはごくわずかの症例がオックスフォードでしか入手できずペニシリンを大発見とする状況ではなかったのに、報道合戦が始まりました。報道合戦の規模は、英字紙からの切り抜きで一冊に数百の記事が入る大きなファイル四冊が一杯になるほど大きなものでした。

英国内ではペニシリンに関して、1942年9月25日に「我が政府は要請に応じいかなる財政的な援助も提供いたします。活用できるあらゆる知識と技術は、この薬が遅滞なく大量生産できるようにプールされます。何者にも、邪魔だてを許しません。」との報告があり、総合ペニシリン委員会が結成されました。この委員会には、補給局のウイァ、フレミング、フローリー、レストリック、陸軍の上級病理学者プール少将、製薬会社幹部などが出席していました。英国のペニシリン大量生産決定に影響を与えたランバートの症例の背後には、政府の関与があったに違いありません。

米英両国で大きな話題となった2つの症例が、ペニシリン神話の原動力になったことは間違いありません。同時期にマスコミ受けする症例が現れたこと、回復が劇的であること、患者が瀕死であったか判断は主治医しかわからないことなど、考えれば疑問が沸きます。ほぼ同時期に米英両国でペニシリン開発を中心となって進めているフローリーの親しい関係者(フルトンとフレミング)が務める病院で、ペニシリンによる奇跡の回復を見せ、さらに報道合戦になったということはとても偶然とは思えません。ペニシリンこれらの事実を冷静に見ると、大きな力が裏で動いている事が想像できます。

フレミングの伝記を読むと、彼はゲームを作って皆と楽しんだり、微生物の絵を作って皆を驚かせたりすることを楽しんでいたとの記述がありました。上のランバートの症例も6月にインフルエンザから髄膜炎、そして8月1日に危篤状態、その後7日間注射更に脊髄内注射、そしてようやく8月末に回復と、ハラハラドキドキのゲームのようです。フレミングはストーリーを複雑にして皆を驚かせたかったのかも知れません。フルトンの関わった症例の「注射をしたら翌日には治ってしまった」と言うストーリーに比べたら格段の面白さがあります。

 

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33-4 患者189人の臨床試験 

その後の研究は、ペニシリンの生産量に限界がありましたので、局所化膿症例の研究を中心に進められ、「下表の189症例」が、フローリーらの論文として1943年3月ランセットに掲載されました。

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症例は目の感染症と化膿した外傷の治療例が大部分を占め、全身の重い感染症は15例のみです。この15例には英国のランバートの症例も含まれています。その前の知見から考えて、ペニシリンは抗菌力があるので、目や外傷に投与すれば細菌の増殖を抑えることは明らかであり、この症例結果と良く合致します。注射剤として全身の感染症に投与した時、適切に感染部位にペニシリンが届く保証はありません。この前の6名の臨床試験の例を見ても、プラセボや他の同効の医薬品との並行比較試験もなされていないことから、今回の15例の重い感染症の臨床試験が、ペニシリンの効果か、それともペニシリンを投与しなくても症状が改善した事例かの評価はできません。ペニシリンが、抗生物質として、全身の感染症に投与されることを考えると、この臨床例では不安です。

今まで見てきた通り、この臨床試験が発表される前から、ペニシリンの効果は絶大だと報道が決めつけ、政府も工業生産を推進しているのです。本来ならば、ペニシリンが足りないのならば、工業生産ができるのを待って、大量の臨床試験をして、その効果を確認してから、医薬品として一般の患者に使うべきなのに、そのような配慮はありません。このようにペニシリンの臨床試験が実施され、医薬品として認められるのは、戦争中という時代背景と政治的な関与が強く働いているとしか思えません。

 

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33-5 チャーチルの症例は偽造の失敗

1940年5月チェンバレン英国首相退任後、チャーチルが首相に就任しました。首相就任後最初の演説で「私には、血と労苦と涙と汗しか提供できるものがない。しかし、我々の目的がなんであるかと尋ねられるならば、私は一言で答えることができる。勝利である。」と述べています。チャーチルは戦争勝利のためには、どんなことも実行する決意であり、その為の行動力も備えていました。チャーチルは首相着任時、ペニシリン開発に関心を待っていましたので1940年6月5日に政府の医学研究委員会のメランピーを、オックスフォードに派遣してペニシリン開発の進捗を確認しました。チャーチルは、戦争勝利のために、多少の無理をしてもペニシリンを完成させようと考えていました。1944年にフローリーをナイトに推薦しました。

第二次世界大戦中ペニシリンは重要な戦略物資でしたので、開発の状況は随時チャーチルまで報告され、必要に応じ首相から指示があったに違いありません。英国のチャーチル首相がペニシリンの使用法を指示した次(着色部)のような事例があります。

1943年5月兵士の淋病治療にペニシリンを使うべきか否か迷った北アフリカ戦地のプール将軍はチャーチル首相に問い合わせました。首相からは「この価値ある薬は、決して無駄に使ってはならない。軍事上の最大の利益のために使うべきである」との回答を得ています。

首相がペニシリン使用法を指示したという事実は、生産促進に政府が強く関与した証拠ではないでしょうか。

フレミングの勤めるセントメアリー病院医学校の学長はモラン卿で、チャーチルの侍医も勤めていました。また、ビーバーブルック卿は、セントメアリー病院医学校が財政難の時モラン卿の求めるままに63千ポンドも寄付をした強力な支援者で、チャーチル内閣の軍需大臣でもありペニシリンの供給に責任のある立場でした。フレミングの死後、ビーバーブルック卿は、次(着色部)のように書いています。

「この偉大な先駆者(フレミング)に正義が行われることを私は切望した。私には、それがフレミングの偉業によって大きな輝かしい栄光を得た国、英国の新聞経営者としての私に課せられた義務であると思われた。」

ビーバーブルック卿は、新聞王と呼ばれている通り、ペニシリン供給の責任を果たすためにも、ペニシリンの有効性を、過剰なまでに報道する力を持っており、十分にその力を発揮したのではないかと思われます。1948年ビーバーブルック卿は、ある調査会に召喚され、所有する新聞をプロパガンダのために使用したことを証言しています。

米国大統領ルーズベルトとチャーチルは非常に親しく、毎日情報交換していたと言われています。米英ともに重要な戦略物資としていたペニシリンについても当然情報交換があったものと思われます。1942年3月に米国エール大学で、同年8月英国セントメアリー病院で同様の奇跡の回復が見られました。米英両国でマスコミが報道合戦をしたのは偶然ではなく、報道合戦がペニシリンの大量生産を促進したのです。

1943年12月英国のチャーチルはルーズベルトおよびスターリンとの3者会談の後、肺炎にかかり、ペニシリンを使って2日間で回復し命拾いをしたと、英米の新聞など世界的に報道されました。日本においても、朝日新聞ブエノスアイレス支局長の取材に基づき、1944年(昭和19年)1月27日朝日新聞に「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾いズルホン剤を補うペニシリン」の大見出しで掲載されました。70歳のチャーチルが旅の疲れもあり、致命的な肺炎を、2日間で回復させたペニシリンの効力を見せつけました。

しかし、実際に用いられた薬剤はサルファ剤であったことが、その後の調査で判明したのです。その詳細は次(着色部)の通りです。

チャーチルが入院した陸軍病院の医師ブルーバータフトは、チャーチルの侍医モラン卿にペニシリンを使うべきだと勧めたが、モラン卿は使用した経験がないと言ってがんと聞き入れようとはしなかったのです。

モラン卿はサルファ剤を使用し、チャーチルは2日間で回復したのです。チャーチルのペニシリン治療について、調べる資料で少しずつ事実関係が異なっていました。(下表参照)

  churchillpenicillin

このように資料によって細部が異なるのは、チャーチルが肺炎にかかった事が、実は曖昧であったためではないかと考えられます。「ペニシリンに賭けた生涯」にある通り、同時期にフローリーがテヘランで肺炎にかかり、約1ヶ月テヘランの病院に入院していました。チャーチルとフローリーの、一方は2日で回復し、他方は同じ病気なのに1ヶ月の入院が必要だった点や時期と症状の一致が不自然です。先に述べた米国のミラー夫人の症例にもフローリーの友人フルトンが深く関わり、英国のランバートの症例もフローリーの友人フレミングが深く関わり、どちらも報道合戦が始まり、ペニシリンの効果を称賛していることから、チャーチルの肺炎をペニシリンで治療したことも故意に報道に流された可能性があります。なお、フローリーがテヘランに居たのは、同盟国ソビエト連邦に米国の研究者と共にペニシリンの技術を伝達するための出張の途中だったのです。1943年9月に、チャーチルはルーズベルトおよびスターリンの3者会談で、この出張の実施が決められたものであります。このことから、チャーチルも同意の上で、フローリーは、この情報を故意に流すことによりペニシリンが完成したことを流布するため、1ヶ月テヘランに滞在した可能性が高いのです。 

さらにもう一つ重要な視点があります。チャーチルの侍医モラン卿は、セントメアリー病院医学校の学長でもあるのです。既に述べた通り、セントメアリー病院医学校は、ペニシリンの発見者フレミングが勤める学校で、ランバートの症例によりペニシリンの効力が絶大であることを示し、報道させた学校です。その学校の学長モラン卿が、使用経験が無いからとしてペニシリンの使用を頑なに拒むのは、一連のペニシリンの報道に大きな疑念があるに違いありません。むしろ、モラン卿は、ペニシリンに効力が無い事を知っている可能性があります。

一般的には「チャーチルがペニシリンで命拾いした」と言う報道は誤報であると言われています。しかし、1942年の米国ミラー夫人の症例や英国ランバートの症例に見られるように過度な報道を煽っていることから考えると、このチャーチルの事例もペニシリンの効力を内外に誇示するための故意の報道であろうと考えられます。その後チャーチルが入院した陸軍病院の医師ブルーバータフトが正直にペニシリンを使っていない事情を話してしまったために、意に反して真実が露見してしまったのではないでしょうか。

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33-6ノーベル賞

ペニシリンの開発に対して、1945年フレミング、フローリー及びチェインにノーベル賞が与えられました。フレミングは、この受賞を喜び報道関係にも活発に対応し、世界各国からも沢山の賞を受けました。開発を主導したフローリー及びチェインは、受賞に感謝しながらも表だって喜びを表していません。

フレミングは、ペニシリンに関して発見はしましたが、ランバートの症例以外は何もしていません。フローリー及びチェインは、戦争開始と同時に開発を始め、米英の政府要人とも緊密に連絡を取り、ペニシリンを完成させました。このフレミングとフローリー及びチェイン立場の違いが、ノーベル賞に対する喜びの表し方や、報道関係に対する対応の違いを生んだに違いありません。

ノーベル賞授賞式のバンケットスピーチをインターネットから出力してみたところ、単語ペニシリン(penicillin)使用回数の違いが、上記3名の立場をよく表していました。スピーチ内の単語ペニシリン(penicillin)使用回数は下表の通りです。

           nobelspeachpenicillin

フレミングは、スピーチで思いがけずノーベル賞を受けた事を素直に喜んでいます。ペニシリンの開発についてはオックスフォードのフローリーやチェインたちのチームの貢献にも触れ、チームワークの大切さと幸運が必要であると結んでいます。彼のスピーチからはペニシリンを信じて、成果を喜んでいることが伺えます。

チェインは、ペニシリンについて、傷ついた兵士を救うと同時に、国を救い、非人道的な戦争を終わらせたことを評価しています。今後も科学技術によって、世界を変えていかなくてはならないと訴えています。取り用によっては、ペニシリンについても改善が必要であり、現時点ではまだ完成とは言えないと受け取れます。

フローリーの場合、スピーチの中にペニシリンの言葉は一度も用いられていません。それどころか、ペニシリンを表現するのに「何か」(something)の言葉を使っています。「何か」(something)は、人類に当面の利益が証明されただけと言っています。当面の利益とは、戦争終結との解釈が適切です。その後に報道の凄まじさに触れ、まだ、検討しなくてはならない事項が残っていることを忠告しています。今まで見てきた通り、ペニシリンの研究が、必ずしも完全ではないこと、報道された症例が作られたものである可能性を示す忠告と思われます。さらに、科学研究は、政治の影響を受けずになされるべきであるとの声が上がっていることを喜ばしく思うとも述べています。このペニシリンの研究が、原爆製造と同等の戦時プロジェクトとして、政治主導で進められたことの反省を踏まえて、政治の影響を受けない科学研究の重要性を訴えたかったに違いありません。

ノーベル賞受賞者3名のスピーチを比べて見ると、フレミングは、ペニシリンの効果を素直に認めて喜んでいますが、チェインとフローリーは素直にその効果を認めておりません。そして、後2者のスピーチは、検討すべき事項が残っていることを暗に伝えているために、わかりづらい表現になっています。

 

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 33-7総括

抗生物質ペニシリンに関しては、フローリーの懸念の通り、まだ検討しなくてはならない事が多いことは明らかです。

以下、日本の1980年からの感染症代表の「肺炎と結核の合計死亡率」と「抗生物質医薬品の品目数」のグラフを書いてみました。

      grafantibaioticsanddethtall

具体的なデータは下表のとおりです。

      tableantibaiticsanddethtall

抗生物質の品目数は、各年代10年間に国内で製造販売が承認された品目数累計で、2010年現在172品目の抗生物質が製造販売承認されていることを示しています。1940年代に承認された抗生物質は、無定形ペニシリン(1947)ベンジルペニシリン(1948)ストレプトマイシン(1949)の3品目ですから、実際に一般の治療に使われたのは1950年代からと言えます。

1920年と1940年に感染症死亡率のピークがありますが、これは大正と昭和の戦争による栄養不足が原因と考えられます。その後栄養状態が改善すると死亡率が減少していますから、感染症治療における抗生物質の役割はほとんど無いと言えるのではないでしょうか。

抗生物質が感染症に絶大な効果を見せるという誤解がなぜ広まったかといえば、重要な要因として戦傷者を救うペニシリンの開発を上げざるを得ません。戦争に間に合わすため、動物試験や初期の臨床試験に疑問があるのにもかかわらず、強引に大量生産に進みました。開発を後押しするために、ビーバーブルック卿を先頭に報道の力を活用しました。特に、米国のミラー夫人の症例や英国のランバートの症例を過度に報道させ、ペニシリンの効力を過大に見せました。その結果、ペニシリンを先頭に抗生物質の神話が世界の隅々まで行き渡りました。

先にも述べた通り、フローリーは、米国のロックフェラー財団から資金援助を受けてペニシリン研究を進めましたが、同時期に同財団で抗生物質の研究をしていたデュボス(ロックフェラー研究所環境医学教授)がいます。そのデュボスが1960年に日本新聞協会の記者たちに対して、「日本の結核死や結核患者が激減した本当の理由は、栄養の改善である。」と述べています。この重鎮の意見にもかかわらず、抗生物質ペニシリンの神話が揺らぐことはありませんでした。これはまさに、プロパガンダの強さを表しています。

抗生物質に効果があるから、細菌が原因の感染症があるのです。栄養の改善で感染症が治れば、感染症は感染症で無くなります。抗生物質も要りません。今こそペニシリンの真実を明らかにすることにより、本ホームページの表題3及び3-2を参考に、感染症の正しい治療を始めるべき時なのです。ペニシリンの真実を知った時は初めて戦後が終わる時かもしれません。二度とこのようなことが起こらないように、この世から戦争がなくなることを、心から祈ります。対新型コロナウイルス戦争も、まっぴらゴメンです。

 

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 33-8 参考文献

「ペニシリンに賭けた生涯―病理学者フローリーの闘い」レナード・ピッケル著(中山義之訳)佑学社

「奇跡の薬 ペニシリンとフレミングの神話」グイン・マクファーレン著(北村二郎訳)平凡社

「碧素・ペニシリン物語」 (新潮社 角田房子)

「薬の話」山崎幹夫著 中公新書

「クスリ社会を生きる エッセンシャル・ドラッグの時代」水野肇著 中公新書

「チャーチル」河合英一著、中公新書

 

  33-9 履歴

2020.4.19 (大安)「ペニシリンの真実を明かす。感染症を無くすために」スタート

2020.4.24  米国ロックフェラー財団の関係及びルネ・デュボスの意見を挿入した。

2021.9.24  登場人物一覧表とペニシリン開発年表を掲載した。登場人物一覧表に合わせて、本文の人物表記を改めた。

2021.9.25  項目番号の先頭に33(表題3ー3を示す)を付け加えた。

2021.9.27〜12.09 全体を再推敲した。文脈や主旨に変更は無い。

2022.10.30〜2023.1.16 全体を再推敲した。年表や登場人物一覧表を整理した。文脈や主旨に変更は無い。

 

 

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 以上

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